あらすじ
『幾千の夜、昨日の月』は、角田光代さんがこれまでの人生で出会った「夜」をテーマに綴ったエッセイです。
学生時代の夜、旅先で迎えた夜、異国で見上げた夜空、住み慣れた街の夜──。
同じ「夜」でも、その場所や年齢、そのときの心の状態によって見える景色はまったく違います。
一つひとつの夜に宿る記憶や感情を、角田さんらしい繊細な言葉で描いた一冊です。
角田光代さんのエッセイが好きになったきっかけ
角田光代さんのエッセイを読むのは、この作品が初めてではありません。
以前、『しあわせのねだん』を読みました。
そのとき、飾らない考え方や、等身大の言葉で語る文章に惹かれ、「この人の作品をもっと読んでみたい」と思いました。
そんなとき図書館で見つけたのが、『幾千の夜、昨日の月』でした。
タイトルを見ただけでは、どんな内容なのか想像がつきませんでした。
読み進めていくと、それは「夜」という誰にでも訪れる時間を、こんなにも豊かに描けるのかと驚く作品でした。
この本に登場する夜は、どれも同じ夜ではありません。
異国で迎える夜。
学生時代の夜。
引っ越した街の夜。
角田さんが人生で出会ったたくさんの夜には、それぞれ違う表情がありました。
私は、この本に出会わなければ、「夜」という時間に、こんな感情を抱くことはなかったと思います。
「まるごと夜」が教えてくれたこと
特に印象に残ったのが、「まるごと夜」というお話です。
舞台はモンゴル。
角田さんはひとり旅で訪れた草原のゲルに泊まります。
周囲には何もありません。
本当に、「なあーんにもない」。
夜中、トイレに行くために外へ出ると、そこには想像を超える夜が広がっていました。
そこで角田さんは、こんなふうに書いています。
「背後にはゲルがあるが、目の前には何もなく、人の気配もない。地球にただひとり置いてかれたみたいだと思った。不思議とさみしくなかった。すごいような気持ちだった。夜、というものが、単なる時間の経過ではなくて、生きもののように感じられた。その生きものと向き合って私はひとりで立っているのだった。(省略)ベッドに横たわりながら、トイレにいかなければあのすごい夜は見られなかったんだなと思った。なんにもないまるごとの夜を、所有することはできなかったんだなと思った。」
この表現に、私は衝撃を受けました。
夜を「生きもの」と表現する発想。
しかも、その夜と向き合う自分を描く文章は、不思議なくらい情景が浮かびます。
そして最後に、
「あの夜は、今も私の内にある。」
という一文があります。
この言葉を読んだ瞬間、私の中にも「あの夜」が存在した気がしました。
もちろん私はモンゴルへ行ったことはありません。
それなのに、角田さんの見た夜が、自分の記憶のように心へ残ったのです。
文章だけでここまで景色を見せられることに、ただただ圧倒されました。
「子どものころには夜がなかった」
もう一つ、最初のページに書かれている一文も忘れられません。
「子どものころには夜がなかった。」
読んだ瞬間、
「そう、それ!」
と思いました。
もちろん、子どもにも夜はあります。
でも、子どもの夜は自分のものではありません。
寝る時間も、大人が決める。
夜を自由に過ごすことはできない。
だから夜を「所有する」という感覚がない。
私はこれまで、その感覚をうまく言葉にできませんでした。
でも角田さんは、それをたった一文で表現してしまったのです。
さらに「まるごと夜」で描かれる夜も、自分だけの夜を手に入れたからこそ見えた景色でした。
夜を所有する。
そんな考え方を、私は今までしたことがありませんでした。
私は夜が好きではなかった
実は私は、夜があまり好きではありません。
静かになると、余計なことを考えてしまうからです。
昼間なら気にならないことも、夜になると頭の中をぐるぐる回ります。
だから、どちらかというと朝の方が好きでした。
朝は何かが始まる時間。
夜は考え込んでしまう時間。
そんなふうに思っていました。
でも、この本を読んで少し考え方が変わりました。
夜は暗い時間ではなく、自分と向き合える時間でもある。
旅先でしか出会えない夜もあれば、自宅で過ごす夜もある。
どんな夜も、自分だけの時間として受け止めることができるのかもしれない。
そう思えるようになりました。
読み終えて思ったこと
『幾千の夜、昨日の月』は、「夜」について書かれたエッセイです。
でも私には、「時間との向き合い方」を教えてくれる本のようにも感じました。
何気なく過ぎていく夜も、その夜にしか感じられない空気や景色があります。
そして、その夜はいつか、自分の記憶の一部になっていく。
この本を読んだことで、夜を少し違う目で見られるようになりました。
夜が怖いものでも、ただ眠るための時間でもなく、自分だけの時間として静かに味わえるものになった気がします。
夜に向き合うことができた私は、少しは夜を所有できるようになれたのかもしれません。



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