前回に続いて、千早茜さんの『神様の暇つぶし』を読んでみました。
あらすじ
親を亡くし一人になった20歳の夏、父よりも年上の写真家の男と出会った――。男の最後の写真集を前に、あのひとときが蘇る。妙に人懐っこいくせに、時折みせるひやりとした目つき。臆病な私の心に踏み込んで揺さぶった。彼と出会う前の自分にはもう戻れない。唯一無二の関係を生々しく鮮烈に描いた恋愛小説。
一言で言ってしまえば、「若かりし頃に経験した忘れられない年上男性との大人の恋愛」といった感じなのですが、ここを一括りにするにはあまりにも生々しく、まるで五感を刺激されるような文章に、引き込まれました。
恋愛小説のようでいて、恋愛小説という一言では片付けられない作品でした。
特に印象に残ったのが、
手には入ってから失うのと、手に入らないまま想い続けるのはどちらが辛いだろうかと考える。考えても考えても答えなどないのに。私たちは強いのか、弱いのか、わからない。
この文章はもちろん主人公の藤子が、全さんと繋がれたけれど、自分のもとから去ってしまったことの辛さと、初めから全さんと繋がることができないまま想い続けることの比較だと思いますが、私は後者ではないかと思います。
人は失ったものばかりを見てしまいがちですが、一度でも大切な人と時間を共有できたこと自体が、その後の人生を支えてくれることもあるのではないでしょうか。もちろん別れは苦しいものです。それでも「あの時があったから今の自分がいる」と思える出会いがあるなら、それは決して無駄ではなかったのだと思います。
もちろん最後まで読了した上での推測にはなってしまいますが、全さんの過ごした一つの季節があったからこそ、現在の藤子が成り立っていると思うのです。
一般的な名言として、「やった後悔より、やらなかった後悔の方が大きい」という言葉があります。
これは行動を起こさないことへの警鐘として広く知られています。
楽しいことも辛いことも悲しいことも乗り越えた先に、成長した自分になれるのではないでしょうか。
少なくとも、父を亡くしたばかりの藤子と、全さんに出会った後の藤子では精神的な成熟度が圧倒的に違うように感じます。
私自身も「やらなかった後悔」の方が長く残るように感じています。
結局のところ、神様とは誰のことなのでしょうか。
読み始める前は、藤子視点から見ると、神様=全さんなのだと考えました。気まぐれな恋愛で人の人生を大きく揺さぶった存在として、「神様の暇つぶし」というタイトルにつながっているのかと思いましたが、クライマックスで藤子が写真集の中をみた瞬間に答えが出てきます。
読み終えた今でも、「神様」とは一人の人物を指すのではなく、その人との出会いや、人生を大きく変えてしまう出来事そのものだったのではないかとも感じています。
実際に、全さんは神様に関してこう説明しています。
「俺が思う神様っていうのは、かたちはなんでもいいんだよ。そもそも人が認識できるもんじゃないんだからな。水槽の中で飼われている亀が外の世界を認識できないのと同じだ」
では、全さんの目には藤子はどう映っていたのか。
この本を読了した先には、切なく儚い、それでいて爽快さも感じるラストが待っています。
私はこの本を読み終えたあと、自分にとっての『神様』とは誰になるだろうと考えてしまいました。
この本のラストには、こんな一節があります。
どんなに深く愛し合っていても、お互い自分の物語の中にいる。それが完全に重なることはきっとない。
この一節を読んで、人は誰かを完全に理解することはできなくても、それでも誰かを愛し、誰かに影響を受けながら生きていくのだと感じました。
きっと、この作品が伝えたかったことは、ここにあるのでしょう。



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